about Exponential Identities

世界は関係性を紡いだ一枚の布である。

ここに余すところなく何人たりとも後に残すことなくつなぎ止めること。それがこころの安全保障であり、そのつながりに人間性を留めること。それが辞書でもなく、日記でもない人間性とその存在を紡ぐ、インターネットらしいプラットフォームに期待する最後の願いであり、自分の残された唯一の使命ではないかと考えたのが、このサイトの始まりである。

 われわれが世界を感じるために、あえて世界が何で構成されているかを厳密に確かめる必要はない。現にわれわれは世界を感じ、それに触れている。もし量子のように極小の世界においては不確定な存在であっても、それが紐状であろうが、あるいはそれが粒子であると同時に波であっても、それぞれはつながっている。

 例えば、点は数学的には面積を持たない。面を持たない点同士をつなげるというのは、概念上の行為だ。そのくせ、われわれは幼少の頃から鉛筆と物差しで、自然と実存的な行為で<線>を創造している。鉛筆の本当の先っぽに点があると考え、物差しは材質が何であれ、撫でる程度の<面>を実感させてくれる。逆に言えば、厚みや奥行きのある三次元のモノは目の前に溢れているが、それより低次のものや高次なものについての理解は、抽象的な次元に留まっていると言えよう。

時間などにわれわれは触れることは出来ない。確かに時間が経っているようには感じる。日が昇り、木の陰が動き、時計が時刻を刻めば、点でも面でも立体物でも何かがそれらに作用していることは明らかだ。重力の作用も地上の時計が高高度に行けば、その動きはわずかに遅くなる。地球の軌道上にあるGPSの時間は地上にいるわれわれとは違う。なぜ、目に見えない時間や重力にわれわれが強く縛られているのかはわからないが、見慣れた風景や人物、物が三次元のモノであるならば、三次元以外の何らかとも、われわれの世界はつながっているのは明らかである。つまり目に見えない何かで紐付いている。

 それが目に見える線でなくとも、ほぼ一生涯、時間や重力と無関係に生きることはない。その上、奇妙なことに、われわれが感じている“この感じ”の大元である主体すら、<こころ>なのか、身体の一部としての<意識>なのか、または<魂>なのかは明らかでない。 ホワイトヘッドの言う過程が現実をつくっているという感じがするのに比べ、我思うが故に我あり、というはいささか心許ない根拠のように思える。

そもそも、夢の中でも、われわれは思っているが、自分がないとか、世界がないとかは感じない。それどころか、何十年も前に忘れ去った哀しい出来事や後悔の念は、夢で目に見えて強調される。何故、何十年も前の恋心がこんなにも胸を痛めるのか、目が覚めた直後にも胸が押し潰れそうであり、押し潰れそうな感触がありありと手のひらに載せられるかのようにリアルだ。しかし、起きている間に想像する夢想とは違って、妙にディテールがハッキリしている。映画でもVRとも違う。そこにいた感じが微かに残っている。このような身近で、誰にとっても日常的な感触こそ、われわれを形成している<世界が確かにある>という感じなのである。実存が本質の先に立つと言うより、本質的実存をこころで受け止めている、そういう感じである。

 そして世界は、われわれが忘れていた罪や忘れ得ない感情までも、われわれを個別に捉えて結びつけている。現実では自らの体験や知見から得た確たる感触、つまり目に見えなくとも、過去の記憶や体験による明らかな関係性の方が、世界を結ぶ強い構成要素である。誰もが共有出来る常識的な風景や人物、物の方が世界の構成要素としては脆い。それらをわれわれは触れて、抱きしめた時に得る感触の方がもっと現実的だと言うことである。いくら五感をシミュレーションした仮想現実に没入したとして、われわれは過去に通じ合ったこころを機械相手に確かめ合うことは出来ない。なぜなら機械はその過去も、感じも、持ち合わせていないからだ。

 もし虚実でも良いから仮想現実がリアルだというなら、その人は相互に感じ合った経験に乏しいのか、今の現実を捨て去りたいのに違いない。共感は同情のように客観的基準に基づいた一方的なものでない。もし共感が余り重要でないならば、歴史も文学も英語も文化や言語もすべて意味がなくなる。これらは、共感が生み出したつながりであって、現実の中で共通化している(共通しているという感じが幻想だったにしても、その幻想を多くの他者と共有している)。世界が全く無意味で、無価値で、無慈悲であっても、数少ない共感がわれわれを構成し、関連付いたすべての断片を織り成し、世界という(自分と)断絶のない現実を織り紡いでいる。

 われわれが忘れがちなのは、その関係性の背後にある意図(個人というより万物に生じる動機=法則あるいは自然法)に対して敬虔でいられるか、あるいはその意図と向き合っているかという<生の感触=生きているという疾走感や高揚感>である。われわれは、時折、生の感触を得るため、または生の感触を取り戻すために世界に抗い、自分の人生を呪う時があるが、これらはあらゆる無数の因果関係に機織られた一枚の布であるが故に、自分の意図だけで切り取ることは決して出来ない。それが故に、われわれはあらゆる機微な断片に心を砕き、一隅(いちぐう)を照らすことで、世界はまるで違った文様にしようと試みるのである。われわれの使命は、世界の片隅に隠された自分にしか見えない特別なつながりを他者に可視化すること。これによって世界の文様は瞬く間に変化する。世界はこのようにわれわれを感じさせ、われわれは世界をこのように変化させることが相互に可能なのだ。

 人間を、人類を救うには、生活の糧となるモノや環境の需要と供給のバランスが取れていれば、それで良いとは言えない。われわれが無限に編み出した世界とそれをつなぐ人間性を俯瞰し、世界からほつれ、ほどけかけた断片に、何らかの意味と意図を持って紡ぎ直さなければ、世界という名の織物は、機械仕掛けの織物と変わりなくなってしまう。飢えた人間に機械的に食料を与えるだけなら、その後の人生がどんなに苦難に満ちたものになっても、本当の慈悲と言えるだろうか。われわれの困難な使命は、人間性が織り成す世界を創ることであり、更に何が人間性であるのかを忘れないことにあるのだ。もしも、それが欠けたとき、世界という一枚の布はどこにもつながらない断片と化してしまう。つまり世の中の一切が孤立し、虚無となるのである。それは人類にとって最も哀しい最後ではないだろうか。

 幸いわれわれは、その術や知識を得ており、世界を再構築することは可能だ。だからこそ、ここに見えないつながりを可視化し、人間性の安全を保障しようというのがこのサイトのメッセージなのである。